資本論の読書会に参加している。
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めちゃ美味しいベトナムレストラン@八千代台
さて今夜の会でこんな質問が出た。
人権の発想は科学的な世界でも同じ答えに辿り着くのか?という問いであった
歴史的にはすべての人は平等である ということの根拠にはキリスト教という根がある。果たして神というものなくして、人の平等性は担保できるのだろうか?
私はYES、だと思っている。
(クリスチャンですがねw)
科学が進むほどに人は生物的な差異よりも、共通項の方を圧倒的に多くみいだしているのではないか、と想定したからだ。
つまり生物学的な視点からは特定の人たちが持っている特権の根拠を保証することが難しいのではないか?
例えば体を解剖して見比べたと想像してみよう。
果たして解剖された身体から個々の生き物としての優位性を担保する理由を見出せるのだろうか?
(もちろんリッチだから栄養価の高い肉体で生存に優位だ、いうような話はあるだろうが)
そのままつらつらと考えてみると、人の持つ特権は経済力、政治力、もしくは美醜などなど、その時代に社会で持つ価値観に依って得ていることが大きい話で、つまり優位性というのは、普遍的な絶対的なものとして保証することは難しく、あくまで時代的なもの、時代の社会構造における中での人間の関係性の問題なのではないかと思い至った。
権力は幻想だ!
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美味しいドリンクだが名前がわからない!
たいへん大雑把な話なんですが、しかし、考えてみることで個々の優位性というのが社会の中での関係性の話なのだ、と気がつけたことが自分にとって新鮮でおもしろかった。
そう、それはドリアンとか、カエルとかは食べるもんじゃない!と思っていたのに口にしてみたら美味しくてガラッと価値観が変わってしまうというような。
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たけのことカエルの炒め物