1、まず最初ので出し
「今から100年後の2125年は私たちどんな生活しているんだろうね。」
「今年産まれた子はギリギリ生きているかも知れないよね。」
そんな会話を常磐線馬橋駅付近にあるカレー屋さんにて交わした2025年3月31日月曜日。
この日は百美+(ヒャクビ)、正式には関東大震災朝鮮人虐殺から100年を迎えて千葉県の美術シーンを再考しそのあり方を模索するプロジェクト」のメンバー4名で千葉県松戸市を訪れていた。目的はもちろん関東大震災時の朝鮮人虐殺現場を巡るためだ。
百美+は在日朝鮮人の表現家や運動・活動家を中心としたアートと運動が融合したプロジェクトで、課題に関心のある人たちと共にFWや学習会などを2023年から重ねてきた。2024年8月にそれらのまとめ展とも言える、「101・人 関東大震災から101年ー人災の記憶を未来時伝えるー」展(2024年8月27日~9月1日)」を千葉市美術館にある市民ギャラリーにて開催した。
それから後、半年間はクラウドファンディングの返礼品用意などに費やされていたので今回は久しぶりにみんなでFWだった。
今回松戸の朝鮮人虐殺現場を巡ってみることになったきっかけは、2025年5月に予定されている「あたたかい家」展に百美+も出展するためである。
元々千葉県を活動対象としていたことに加えて、あたたかい家が松戸で開催され出品するならその地のことも知っていこうと話し合い、そして、準備の負荷がかからないようにコアメンバーのみで気軽に巡ろう、がコンセプトだった。(昨年までのFWは資料などの下準備が一仕事だった・・・)
それもあり、巡ったのは
①松戸市内の江戸川に架かっていた葛飾橋(カツシカバシ)での虐殺現場
②馬橋駅と萬万寺(マンマンジ)での暴行と虐殺現場
の2箇所だった。
2、葛飾橋
松戸駅を降りると、商業ビルにぐるっと囲まれていることに気がつく。木々はほとんど見えず、飲食から遊興店までの賑やかな看板がチカチカと目に入る。

駅から最初に向かったのは陸軍工兵学校跡 Army Technician School Ruinsだ。現在は松戸中央公園の中に碑があり、また公園の入り口には煉瓦作りの門柱が市の指定有形文化財として残されている。
駅から5分ほど歩いて心臓破りな階段を登ったところに公園があった。
市民が散歩したり近隣の幼稚園生たちだろうか、引率されて遊びにきているのどかな場所だ。こんな場所に不似合いな石碑が入り口すぐにあった。

公園を左手に歩いていくと煉瓦作りの松戸中央公園正門門柱が見えてきた。レンガをひとつひとつ丁寧に積み上げられた門は確かに立派だった。市の文化遺産となっており、説明の看板がある。軍の施設であったけども煉瓦の焼き色は見ていて飽きることがない。美しい。


公園を下り次のスポットへ向かう。大きなS字の坂道の途中には陸軍の土地だった範囲を示す、これまた石碑がある。


石は強いね。
次の目的地は虐殺現場である葛飾橋である。
賑やかな商業施設の立ち並んだ駅から橋側へ進んでいくと街の風景が変化していくのがわかる。
松戸の街は江戸の時期には船着場もある宿街だったようであちこちにそのことを記憶する碑が見つけられた。
碑は当然石造りなのだが、改めて石という素材の経年性の高さをしみじみと感じる。群馬の森の追悼碑のように人為的に破壊しようとさえしなければ残しておくべき記憶をずっと次の世代にも届けてくれる。
松戸という街は江戸の時に賑わった風景をあちらこちらの碑で今に甦らせてくれているのだ。



江戸川が近づいてくる。朝鮮人虐殺現場を巡るときには「つまづきの石マップ」が必須だ。このマップを開くと日本各地にある虐殺に関する場所と、どういう状況で起きたのかなどの情報が、出典と合わせてまとめられている。

「鮮魚街道」から「健康の道エコロード」へあがると、江戸川へ向かって下る側面に菜の花が一面咲き乱れていた。寒い気候の日だが、歩くと菜の花の香りが春を感じさせる。

私たちは虐殺現場により近づいてみようと川面へ下っていくことにした。


菜の花の斜面を下り切ったが現場はまだ奥だ。川面へ行くには、雑木林の道なき道を進めていく。虐殺の当時はいったいどんな川辺の風景が広がっていたのだろうか。
虐殺があった葛飾橋は実は今はなき橋だ。元々江戸川を越えるために造られていた木造の橋だったそうだが、鉄橋ができた後に解体されたそうだ。現場に行っても橋自体はないのだが、その代わり、人がなかなか寄りつかない川岸では静かな空気の中を鳥たちの声が響いていた。


ここの現場で殺害された朝鮮人は1名だった。この川は少し先で江戸川と合流する。遺体は川に浮かんでいたとあるが、その後がどうなったのかはもちろん記録がない。おそらくはそのまま流れ続けて、すぐ先の江戸川に合流して流れていったのだろうか。
向こう岸に泳いではとてもいけないような川幅の江戸川を前に百美+メンバーでしばし佇んでいた。

3、馬橋
松戸駅に戻りそこから常磐線で馬橋駅を下りた。

馬橋では6名の朝鮮人が配布され、1名が駅で暴行を受け、2名と3名のグループに分かれてそれぞれ引きづられていき、最後は萬満寺の境内で虐殺されたことが記録されている。恐ろしいことに、2、3名の朝鮮人たちを自警団含む市民たちが数百名で取り囲んだという。もちろん手には鳶口や刀や丸太などなどの武器を持っている。口々に「やってしまえ!」「逃すな」などの怒号も飛び交い、制しようとした軍人を蹴ったというエピソードも記録されていた。
その萬満寺へ向かった。
萬満寺は馬橋駅から歩いて5分もしないくらいの距離にある。立派な外観でかなり広さを感じるお寺だ。金剛力士像が国の重要文化財でもあるらしい。

門をくぐるとすぐに護国忠霊碑があった。

「日清日露支那事変大東亜戦争戦没者氏名」が記録されている。
が虐殺の事実はどこにも碑がない。そのまま境内を進み、本堂前にまできた。
虐殺の当時はこの境内まで入ったのだろうか。 もしかしたら夜の時間で、境内に火がたかれており、その焚き火の明かりの中でことは起きたのかもしれない。
参拝者がいない静かな境内に立ち、100年前という時間を想像したときにそんな風景が浮かんだ。きっとそうだったかもしれないな、確証はないが自分の中でうなづいた。
「もしかしたら墓地に朝鮮人のお墓ないかな」
誰かがそう呟いた。もしあったらすごいことだよね、とみんなで話してお寺の墓地を巡ることにした。(千葉県八千代市では2ヶ所のお寺で朝鮮人のためのお墓があったり、道端に無縁仏という形で偲ぶ石がある)
お寺の墓地では陸軍だった戦没者のお墓は見つかった。が、お寺で虐殺された朝鮮人たちを偲ぶものはない。一体、彼らの遺体はどうなったのだろう。記録はない。
朝から冷え込んでいたがここにきて雨もパラパラと降ってきた。一通り見たので駅へ引き返した。
いくときには気が付かなかったが、随分歴史があるのだろうか、旧家が立ち並んでもいた。この人たちの先祖はその当時どんな行動をとっていたのだろうか。想像せずにはいられなかった。
駅前にあったカレー屋さんにみんなで入った。お昼を食べていなかったし寒さで冷えていたのもあり、料理がとても美味しい。

今日のことを振り返りながら話した中で、冒頭の会話が出てきた。100年後の2125年にあなたはどういう生活をしているだろうか?自分は生きてないよなーと思うが、それでも人々の生活を想像してみる。
AIをウェアラブルな形で使いこなしているだろうか。健康寿命は伸びているだろうか。宇宙で生活している人がいるのかな。
「100年前の人が今の時代に来たら、その技術は魔法だよね。」そう言ったとき納得した。そう、私たちは関東大震災から100年後の時代にいるんだ。この間、時代はどれほど変化したかはいうまでもない。しかし100年後の自分達はその当時虐殺された人々を記憶しようとこうして現場を巡っている。石で残された記憶は碑は堅固だが、人々の記憶を繋いでいこうという意思も堅固だよな。これから先100年だって誰かがきっと現場を訪れているに違いない。あったことは消えないのだ。
帰りの電車を待っているとき、馬橋駅に待合室には美しいアート作品があることに気がついた。
待合室の広い窓面に、誰かの描いた金剛力士像や萬満寺の風景がシールシートで横長に貼られていた。壁には解説パネルがあり、常磐線と藝大が協力したプロジェクトだとわかった。

いい取り組みだな、と思う一方で、モチーフになった萬満寺での虐殺の歴史を踏まえて作品は作られたのだろうか?と頭のどこかで考えていた。そういう歴史を踏まえた上で作られる作品はどんなものになるだろう。
ま、自分で答えを出してみるかなー。
最後まで読んでくれてありがとう。ご意見や感想はおきがるにください。また次のブログでお会いしましょう。 miranartworks@gmail.com