1、ショッキングなニュース
2022年10月14日イギリスはLondon's National Gallery(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)でのショッキングなニュースが流れて来ました。
Just Stop Oilという環境活動家グループのメンバー2名が、Vincent van Gogh(ビンセント・ヴァン・ゴッホ)の 「ひまわり」の作品にトマトスープをぶちかました、もといスープをかけたというものでした。
こちらは彼らの行動を撮影したもので、JustStopOil公式HPからです。
活動家たちの主張はこのような内容のようです。
「声明によると、ジャスト・ストップ・オイルは14日の行動について、英国で「予定されている石油・ガス開発許可の新ラウンド開始に合わせて」行ったものだとしている。」CNN
『1人は「どっちが価値がある? アートか命か?」と叫び、さらに「絵の保護と、地球と人々の保護と、どっちをより心配している?」と問い掛けた。』APF通信
このニュースに皆さんはどうお感じになり,考えるでしょうか。
2、SNSでの反応
当然様々な反応が世界中でおきていたようです。
これは違う角度から活動家の様子を捉えた動画とSNSのコメント。この方は活動家含んだ撮影者たち,また美術館含めての劇場型のパフォーマンススだとして反感を示しています。(撮影者は活動家について来ている人たちかなと思います)
めちゃ怒ってますねぇ。
あるいはこのような過激な抗議活動に対して一味違う角度から言及をしている方もいました。
James Ogden氏は社会運動研究の視点からこの件についてブログを書いております。「過激な抗議活動は本当に未熟な効果のないものなのだろうか」の検証という,とても興味深い内容でした。結論の一部だけ抜粋します。(興味ある方はリンクからどうぞ)
『結論から言うと、ほとんどの人は破壊的な抗議活動に対して不当な否定的反応を示すと思います。非暴力的で過激な戦術は、より穏健なグループへの支持を高め、運動全体が目的を達成する可能性を高める可能性があるのです。
最も合理的な人々でさえ、非典型的なもの(芸術的傑作にトマトスープを投げつけるような)を目にすると、奇妙な感情的反応に陥るようである。しかし、芸術作品にスープを投げないで、何が進歩なのだろうか?』(翻訳ツールDeepleでの翻訳)
https://jamesozden.substack.com/p/whats-everyone-got-against-throw
社会変化を起こす運動の視点で取り上げるなんて,エキサイティングですね!
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日本ではどんな意見が出ているでしょうか。
日本での見方は,まずはSNSで圧倒的に反感を示す方が多いです。きっとこれを読んでいる方も、そりゃそうだろうと共感されるかな?
そして,専門誌のニュースでは情報の伝達のみで見解はまだあまり読むことはできないようです。(書いてる人いるのに自分が知らないだけかもしれません)
3、そもそもなぜ美術館を狙うの?と一歩立ち止まる。
自分は今回のニュースをヘッドラインで読んだ時に,まず、「ひぃぃぃいい、もうやめてぇぇぇ!」と思ったのが第一でした。
それから次にニュース読んでみて、おや?と感じたのです。
かけられたのは「ハインツのトマトスープ」でしたが、これが「キャンベルスープのトマトスープ」だったとしたらどうでしょうか。
「Cambell’sSoup(キャンベルスープ)」と聞いてアート好きな人がまず思い浮かぶのは?
もちろん,ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルによる作品「Cambell’sSoupCans」ですよね。
キャンベルスープがゴッホのひまわりにかけられたとしたらこんなアイロニーを想起させます。
石油というのは大量消費社会の基礎エネルギーですので、それが孤独な個の芸術家の作品にかけられたとしたなら、個々の存在価値を大量消費社会が上書きしたんだぜ!というメッセージをかぎとってしまうでしょう。
かなりアート的な抗議活動です。このように自分の感情が一歩立ち止まった時に疑問が浮かびました。
「そもそも,なぜ美術館ではこうした抗議活動が起きるんだろうか?」
海外での名画を狙った活動家たちの抗議活動は今回が初めてではありません。ちょいちょいニュースで報道されています。なぜ、美術館なのでしょうか。
そこには美術館の存在に対する認識の違いがあるのかもしれないと思い至りました。
4、美術館の役割と見方
日本では美術館といえば,まず入場にお金を払います。特別展になると今では2000円を超える入場料になることもあります。(先日のリヒター展もそうでした)
当然ながら鑑賞中は大きな音を立てないですし,床に座り込んで鑑賞することもしません。また、作品を目の前にして模写(絵を描き写すこと。勉強の一つ)することもできません。他の人たちもいるのでマナーを守って鑑賞します。
美術品は高額ですので危害を加えるなんてとんでも無い!
それに対して,欧米では美術館はどんな存在なのでしょうか?
実は欧米の公立の美術館の多くは無料で観ることができるのです。ロンドン・ナショナル・ミュージアムもその一つです。
世界中からの美術品が集まった場が無料で見れるなんてどういうことなんだ?!と思いますが,税金が投入されて市民が無料で鑑賞できるようです。
また,そのせいでしょうか、学生たちが引率されて名画の前に座り込み説明を聞いている姿があります。 あるいは許可を得て、名画を目の前にして模写する人もいます。 あるいは、名画の前でゲリラ的にパフォーマンスを展開する人もいます。(許可があるとは思えませんが) ニューヨーク・メトロポリタンミュージアムでは世界的に有名な祭典「METガラ」が開催されます。その時の来場者のファッションには毎年多くの注目が集まりますね。
美術館というのは、受け身で鑑賞する場以上の、学びや主張の場としての機能面があるわけです。
5、林美蘭的主張
私は、欧米の美術館のあり方を考えた時に、日本での美術のあり方を考えさせれました。
①日本では美術館は全てにとってアクセスできる資産ではない。
美術館に無料で入れるということには大きな意味があります。それは美術というものが、全ての人たちがアクセスできる共有の知識的文化的資産になる,という点です。
日本では美術鑑賞というのは有料ですし、近年は価格が上がっています。
経済的なゆとりがあるかないかでアクセスできるかできないかに差が出てくる。自ずと経済的な立ち位置の人たちを篩にかけてる,とも言えます。 また有料で鑑賞するということは、好きだから観るんでしょ?つまり美術は嗜好品である,と言っているとも言えるのではないでしょうか。
②美術館は受身になる施設だとするならばそれは消費の対象でしかない。
やや乱暴な書き方になりますが,私は今回の件を通じて、美術館での活動は人々の興味を強く惹き,抗議の場として意味をなすと再認識させてくれたと感じます。
美術館は主張できる場だということを示したのです。
それは,もちろん被害を受けた作品たちは高額であり、よーく知られている作品だからという理由が大きいでしょうけど、一方で美術品が過去の品物にとどまっていない,今の時代に繋がる生きたあり方をしているんだな,と感じさせられています。
もしかしてキャンベルスープでの抗議であればそれはパフォーマでのアートになり得たかもしれない。過去の作品を偉大なものとせず批判と批評を重ねていく、
そこに欧米でのアートが文化であるヒントを垣間見たと思うのです。
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ということで今日の結論。
「芸術とは美術とは,頑丈なガラスに閉じ込められた化石ではない。今でも問い直されてゆくなかで、現在につながる連続性の上に存在しているものなんだ」
はてさて、皆さんはどのように解釈されたでしょうか?